少年「M」〜疎開地の思い出〜

                「戦後64年 少年M 63年ぶりに疎開地に立つ」の改訂版 (2012年9月)


少年Mは、63年ぶりにJR松本駅のホームに降り立った。
戦後64年目を迎えた2009年8月だ。
63年前の松本駅は木造だったが、今は鉄筋コンクリートで出来ており近代化した駅舎だ。
昔の面影は何も無い。当時は蒸気機関車が客車を引っ張っていた。

当時、少年Mは東京に住んでいたので乗車地は新宿駅だ。
客車に縦にVと赤字で書かれた三等車に乗る。
戦時中のため、今のように指定席なんていうものはないから早朝から、当時家のことの手伝いは
なんでもする男がいて、彼が早朝から入場券でホームに入り順番を取っていた。


蒸気機関車だから窓を開けると煙が入ってくるが、開けないと冷房があるわけでないから暑い。
あっ、トンネルだ。窓を閉める。出た。で、また窓を開ける。
その瞬簡には、いくばくかの石炭の臭いがする煙が開けた窓から客室内に流れ込んできた。
二人掛けの椅子も肘掛のところに横座りする形で三人掛けが常識となっていた時代だ。
少年Mの夢はいつかは二等車に、いや、いつかは一等車、否、
展望車に乗りたいというのが願望だった。
少年Mは松本駅で63年前の匂いを探したが何処にも漂っていなかった。
町の繁華街に昔の家の作りを探したが、これも何処にも見当たらない。
63年とは、そんなに昔だったのか?
63年前、少年Mはまだ小学生、それも国民学校といわれた時代だ。
そして、今の少年Mは73歳だ。

太平洋戦争が激しさを増し始めた昭和19年、少年Mは家族と共に長野県松本市へ疎開したのだった。
小学2年生のときだ。疎開先は松本市浅間温泉で、住むところは浅間温泉の「芳の湯」という
温泉旅館を借り切っての事だ。後ろは「小柳」という旅館だった。
貸し切った訳は少年Mの父親の会社が、新たに空襲を避けて松本に工場を作ったからだ。
工場は軍用機の後輪の車輪を作る軍需工場で、父親は此処の責任者だった。その関係で、会社が
「芳の湯」を借り上げ、その一部に会社で働く女子挺身隊の女学生たちが住んでいた。
戦時中のことで、こんな話は口外秘で、この話を書いていて兄から聞いた話だ。これは後日談。

更に、詳しくその後、記録を調べて見た。
軍需省が、戦局が苛烈になるに従い、軍需工場に対する早々の要請は益々厳しくなり、地方に
量産工場建設の必要に迫られていた。工場建設候補地を選定中、長野県松本市長より要請があり、
昭和17年に松本市出川町に新工場建設を決めた。莫大な広さの敷地の中には工場、社宅、
青年学校はじめすべての施設があり、その広さは15000坪、宮田町と称されて、
生産は飛行機の練習機、重爆撃機の車輪及び尾輪であった。
昭和19年4月6日には天皇陛下御名代として侍従武官の御差遺があり、少年Mの父が
工場長として説明、工場見学を先導。
更にその後、軍需省の疎開命令で東築摩郡東郷村字原に疎開、生産できないまま終戦を迎える。
この間、半地下工場の建設も行うが、出水が激しく中止となる。

この頃の少年Mにとっては極秘事項だけに、何も知らずにいたのだった。
少年Mの父親の会社は昭和19年4月25日に全従業員徴用、軍需工場に指定された。
松本の工場名前は、秘匿名に改称され、皇国第七〇七工場と呼ばれた。
今見ると、北朝鮮の工場の名前かと思う。

東京が爆撃されるからと言われ、子供心にはわけもわからない年頃で編入先の学校は
長野師範学校女子部付属国民学校の2年東組だった。
編入の朝、まだ東京から荷物が届いていないので、上履きの運動靴も無くスリッパを持参。
これを履いて教室に入ったら、ものすごい笑いが起こったのを何故か今でも鮮明に覚えている。
すぐに裸足になった。とにかく東京から来た人間は当時松本にはいないだけに、
外国で日本人がじろじろと見られるのと同じ状況下と思ってもらえればいい。
通学の道は浅間温泉から女鳥羽川を越えていくと桑畑が一面にあった。
そこを過ぎて練兵場を横切るか、横目に見ながら下駄を履いて通学だ。
練兵場では小型の戦車が走り、陸軍の兵隊が訓練を受けていた。
その頃は浅間温泉から松本駅まで松本電鉄の電車が走っていたが、それに乗るということはなかった。
兄が二人いたが、その二人がどんな学校生活をしていたかは、まったく記憶が無い。

とにかく一人猛烈ないじめっ子がいた。体の小さい山口晃という名前だった。
家が少年Mの疎開先の小柳の近くだった記憶がある。これは後に勘違いと判るが、
何かにつけては因縁をつけていじめてきたが、どんないじめだったかは記憶が無い。
そのうち何かの拍子で仲良くなるのだが、何が理由か鮮明な記憶が無いが、
少年Mの母親が食事を共にしたか、何か親身になったことがあったようだ。
それから山口晃は猛烈に親切な友人に変身した。
通学はいつも一緒、桑畑で桑の枝を折り、チャンバラをした。
共にすき腹でイチゴ畑に盗みに入り、イチゴを腹いっぱい食べては見つかり逃げた。
ベイゴマのつくり方も彼に教わった。
土の中にベイゴマで型をつくり、そこに溶かした鉛を流し込んで冷えるのを待つ。
メンコのやり方も教えてくれた。

戦争が終わり月日が経ち、ふと山口晃に会いたいと思った。
そうだ、会って当時の話をいろいろと聞こうと。日が経ちすぎていた。
人づてに彼は既に亡くなっていることを知らされた。

いつかは行こうと思っていた、疎開した地へ。

そして突然に2009年8月18日にその日が来た。
松本行きの電車は煙も出さずに、冷房が効いた快適な車両だった。
変わらないのは、国宝の松本城だけだ。
そうだ、このお城のお堀で、下駄スケートをしたんだ、当時は。
下駄に銃剣みたいなものを取り付けて、紐で足に縛り付けて氷の上を滑るのだ。
63年たった今はお城の周辺は昔のような静けさは無かった。

「此処から浅間温泉まで歩けますか?どのくらいかかりますか?」
通りがかりの郵便配達の人に聞いた。
怪訝そうな顔をして「歩いたら?大変ですよ」
少年M、でも今は73歳の少年Mは、心の中では当時はどこまでも歩いた記憶が蘇っていた。
タクシーに乗り、運転手さんに聞いた。
「運転手さん、お幾つ?」
「53歳です」
「此処生まれ?」
「そうです」
「洞?知ってますか?」
「知ってます」
「では洞へ」

洞は少年Mが浅間温泉から更に奥へ疎開した地だ。何で洞へ疎開したかは定かでないが、
当時の国民学校の古い記録が手元にあり、それを見ると、
昭和20年5月19日 敵機B29が1機松本上空を通過、児童防空壕へ避難とある。
更に7月10日 重要書類及び備品疎開〈三才山へ〉
7月15日 家庭防空壕強化のため5日間休業、
8月2日  当校児童の疎開について父兄懇談会、
8月13日 空襲警報数回発令、敵機長野市北部地区に侵入という記録がある。

確かに記憶は少年Mにはある。防空壕から遥か上空を銀色した飛行機が豆粒程度に目撃できた。
B29だ。初めて見て、それが最後だった記憶がある。後の話だが、少年Mは疎開のお陰で
空襲を知らない。同年代はみな空襲に遭遇している。考え方によると浦島太郎みたいだ。
松本は別世界だったのかもしれない。

そんなことから少年Mの両親は早くからさらなる疎開地を洞に求めたのだろう。
洞への距離は4キロはあるだろう。途中「此処が練兵場ですよ」と教えられたが、
立派な建物があり昔の面影はどこにも無い。
洞の目的の名前の家に着いた。Y家でこの家の一部を間借りして生活していた。
すぐ近くに今も綺麗な女鳥羽川が流れている。そうだ、此処でカジカ取りをしたのだ。
割り箸に縫い物をする針を糸で3本くくりつけ岩の下にいるカジカをそれで取った。
いくばくかの記憶がよみがえる。

その頃は金銭は役に立たなく、食べ物を農家に行き、分けてもらうのに着物が金銭代わりだった。
少年Mの母親は疎開で持参した着物を一枚ずつ、農家に持参して米に換えた。
正にたけのこ生活だった。
少年Mが今でも変に鮮明に覚えているのは、洞に着いた日、間借りする農家の家の人が
夕食に作ってくれた味噌汁だ。具がほうれん草だった。妙に美味しかった。
ほうれん草を味噌汁の具にするのか?
初めてのことだったからだ。ほうれん草を育てる肥料は当時は人糞だった。

洞から歩いて通学した。今思えばよくもこんな距離を歩いて毎日通学が出来たものだと。
現在はバスもあるが、それでも1時間に1本あるかという時間表だった。


洞、少年Mの幼少の頃の忘れられない場所だった。
洞と書いて読める人はそういないだろう。「洞」はホラと読む。

浅間温泉に着いた少年Mは、早々に昔の記憶を頼りに歩くと、道だけは63年前と変わっていなかった。
小柳も手前の広場に建て増ししてあるが、昔の印象をそのまま残していた。
此処で思い出すのは、布団部屋だ。旅館だから布団が沢山ある。その布団の置いてある部屋だ。
此処で女の子とよく、お医者さんごっこをした。誰も来ない密室?で布団は沢山あり
、遊ぶのには最適の場所だった。今考えるとお医者さんごっこは健全な遊びであった。

食料は欠乏の一途、週に一度かサツマイモとシャケ缶の配給があり、
少年Mはよくそれを取りに行かされた。サツマイモがそれぞれ積まれており、どれが一番多そうか
選ぶのに迷った記憶がある。ご飯は豆か、かぼちゃを混ぜて炊いた。
少年Mは白いご飯が食べたくて、その混ぜご飯を米粒だけより分けて食べた。
今でもそのせいか?豆ご飯は好きではない。

松本には岡宮神社〈おかのみやじんじゃ〉がある。
此処の宮司が、少年Mが疎開したとき学校で一緒のクラスだった。福沢慶孝という名前だ。
当時のクラスメートで名前を少年Mが記憶しているのはあと、犬塚英夫、小山啓三、小山正義ぐらいだ。
福沢に会おうと少年Mは思った。
電話しないでもいるだろう?女鳥羽川の堤防を歩いて下った。
そうだ、浅間温泉と反対方向だから遊んだ記憶が無いが、63年前の記憶でも
物静かな子供だったような記憶があった。

炎天下に堤防を歩いて探すが見当たらない。
土地の人に聞くと場所を教えてくれるが途中で人に聞くと判らない。
それほど土地になじんでいる人が少ないのだろう。ようやく岡宮神社を見つけた。
立派な神社だ。社務所は誰もいない。
境内を掃除している人に聞くと、宮司は自宅で入り口は道路側だと教えてくれた。

福沢宮司はわかるかなと思いつつ、内玄関から声を掛けた。
「Mですが」
応対に出た若い女性はいったん引っ込んだ。
再び「どちらの?」
「小学校で同級の」


その女性は怪訝そうな顔をして引っ込んだ。昔の知り合いと称して金でも借りに来たのかと
思われたかなと少年Mは心の中で感じた。

福澤宮司は、かなり怪訝そうな顔で現れた。
少年Mは思いたって尋ねた、山口は亡くなってしまったことは人づてに聞いたなど思い出話をしたが、
63年という歳月は宮司にはなかなかその昔にたどり着かない表情だった。
かなりの立ち話で「偶然、明日では自分は旅に出ていて不在だった。今日でよかった。
ここではなんだから上がりませんか」と。
座敷に通されても福澤宮司は記憶をたどっている様子だが、そう幼少のときの顔と63年目の顔では
結びつかないが、如何にして結び付けようかと苦慮しているのが少年Mにはよく判った。

福澤宮司は話題の一つで、浅間温泉はあの温泉を使って蚕の卵の孵化に利用したので
浅間温泉が有名になったのだという話をした。そうか、それであれだけの桑畑があったんだ。
それよりも戦時中はカルシウムが不足するといい、蚕のさなぎを干したのをよく食べさせられた。
なんとなく香ばしく美味しかった記憶がある。

福澤宮司も話しているうちに、なんとなく記憶が甦ってきた様子だった。
犬塚英夫とは手紙やイーメイルでやり取りしている、また少年Mが東京で写真展をしたとき、
見に来てくれた話をしたら、さらに記憶が戻ったのか、山口はいろいろと恵まれない境遇だったので
いじめっ子だったが最後は大学の先生になったなどその後の話をした。
次回は酒を飲みながら会いたい、神社関係では京都の石清水八幡宮の田中宮司とは親しい、
神戸の生田神社の加藤宮司とはJCでお付き合いがあったなど、共通の話題が見つかった。
岡宮神社から帰りはタクシーで浅間温泉へ、距離は4キロ以上あった。
猛暑の中をよく歩いたものだと我ながら感心した。

長野のぶどう園を尋ねてみようと電車に乗った。松本の次が南松本だ。
そうだ、南松本に少年Mの父親の工場があったのだ。
戦時中のことだし、少年Mには当時父親がどんな仕事をしているか、
父親からも母親からも聞いたことが無かった。
正直、正確に知ったのは父親が99歳で死んだとき、新聞の追想録に載った記事だった。
南松本に半地下工場を作り、そこで飛行機の車輪を製造していたことを。
その南松本駅前の広大な敷地には、今風の住宅が所狭しと建っていた。

どこを見ても63年前の広大な敷地は何処にも見当たらない。

終戦後、少年Mは東京に帰る当ても無く、洞での生活が続いたがある日、
今帰ればそのまま昔の東京の学校に戻れるということが判り、通っていた小学校の皆、
つまり福沢、山口などに別れの言葉も無く突然の帰京となった。


少年Mの疎開はそこで終わった。

疎開のときの手元にある記録を見ると、初めの担任は片桐一二三先生とあるが、
4年生で上条為人先生に変わっているが、何故か少年Mは上条為人先生の記憶しかない。
体の大きな先生だった。

疎開地松本は浅間温泉から松本駅まで電車が走り、女鳥羽川を挟んで桑畑だらけで練兵場があり、
冬はお城のお堀で、下駄スケートが出来るところという印象しかない。
63年前に松本で育ったという人にも出会わなかった。
それほど63年とは長い月になっていたのだ。

その後、外国旅行から帰った岡宮神社の福澤宮司から電話があり、会った後から
いろいろと少年Mのことを思い出したと、今度来るときは連絡してから来て欲しい、
ゆっくり美味しい酒でも飲みながら話をしたいし、昔の友達数人でも呼ぶよ、という電話があった。

疎開のときの子供心の友情が63年たっても存在していたのが、妙に親しさを増した。
心の中のわだかまりが取れた気がした。


少年Mの疎開の時の思い出話はこれで終わったと思っていた。

その後、少年Mが疎開の時、通学していた「長野師範学校女子部付属小学校」の
昭和24年卒業者は、のちに名前が変わった信州大学教育学部付属中学校へと進学したのだ。


勿論、少年Mは終戦とともに東京の学校に戻ったから、同級生とも疎遠になり、
小学生時代でも顔を覚えている記憶がないのに、還暦を迎えるころに同窓会の通知が来た。
今更、一人か二人しか顔が判る同窓会には、さすがに行っても語る話題がないのでご遠慮申し上げた。


古希も過ぎてやがて喜寿になろうかという、ある日、分厚い郵便物が届いた。
封を開けると「駒草」という、信州大学教育学部付属中学校昭和26年度の卒業文集の復刻版だった。
ガリ版刷りで、いかにも当時を思い出せた。
何気なくページを括っていくうちに、小学校の卒業式の時の写真が鮮明な画像で印刷されていた。
何気なく見ると、そこには再会したいと思っていた、あのいじめっ子の山口晃が
最前列に座っているではないか。思わず懐かしさがこみあげてきた。
タイムスリップしたような気持に陥った。
あの初めて会ったときの顔だ、少年Mに石を投げつけたりした、いじめっ子の時の顔だ、
そして、良い子になった時の顔だ。
両方の顔がだぶって見えた。会いたかった山口晃がそこにいたのだ。
ガリ版刷りの中で写真だけは否に鮮明に、黒白写真だけにリアルさを感じた。


懐かしいねえ、山口、その後方には今でもイーメイルを交換している犬塚英夫、
その下には、福沢慶孝がいる。それよりも真ん中に担任だった上條為人先生が大きな体で座っている。
中学の文集だから当然少年Mには関係ないはずなのに、名簿が小学校からの引き続きなので
幹事が気を利かせて送ってくれたのだろう。お蔭で終戦直後さよならも言わないで去ってしまった、
あの時代にさかのぼって山口晃に会えたのだ。



もう一度詳しく昭和18年にさかのぼってみよう。

少年Mが疎開した小学校は昭和18年4月1日に長野師範学校付属国民学校と改称した。
昭和19年2年生の時だ。当時の学校行事にこう書かれてある。

4月25日 靖国神社遥拝式
4月29日 天皇節拝賀式
5月3日  春の遠足
5月12日 故元帥海軍大将古賀峯一海軍葬、全校遥拝
5月22日 青少年学徒に賜りたる勅語泰読式
6月2日  端午の節句運動会
7月13日 午睡開始 約45分
8月30日 父兄会結成
9月2日  東京第一師範学校男子部付属国民学校の疎開児童入校式
      3年以上6年まで各学級279名職員10名
      浅間温泉、西石川、東石川、亀の湯、菊の湯へ
9月14日 遠足
9月18日 満州事変記念日、護国神社参拝
10月5日 体育錬成会

 略

昭和20年3年生

4月25日 敵機B29、1機松本上空通過、児童防空壕へ避難
5月19日 敵機1機、松本上空通過
7月10日 重要書類及び備品疎開〈三才山〉
7月15日 家庭防空壕強化のため5日間休業
8月2日  当校児童の疎開について父兄懇談会
8月13日 空襲警報数回発令、敵機長野市北部に侵入
8月15日 正午終戦の御聖断下る、天皇陛下の御放送あり謹みて拝聴

 略


少年Mは前にも書いたように東京都民第一番で長野県松本市浅間温泉に疎開したのだ。
疎開で編入した学校の生徒は皆気がつぃたら普段は裸足、東京からやってきたお坊ちゃんは
上履きがないのでスリッパを履いて、皆に異様な目で見られたのだという事は前にも書いた。
疎開の走りで、その後に東京の学校が集団疎開で温泉旅館を借り切り学校の一部を
借りて授業をしていた。少年Mは個人疎開だったからだ。


確かにB29を見たのは記録にもあるように二回だけだった。
米粒ぐらいの大きさで青空の中を銀色の機体が飛んでいく光景はいまだに忘れられない。
松本にいたお蔭で少年Mは空襲を知らない。当時は食べ物がなく、ご飯は混ぜご飯だ。
豆だらけのご飯、サツマイモ入りご飯、カボチャ入りご飯、白米だけのご飯なんて見当たらなかった。
釜に残ったご飯粒を母親がざるに入れて干していた。


終戦を迎えても少年Mはいい子になった山口晃と遊んだ。
相も変わらずメンコもした、イチゴ畑からイチゴを盗んでは美味の味を山口と楽しんだ。
桑の木の枝でチャンバラもした。近くの森で木のぼりもした。
お医者さんごっこの時は彼はいなかった。彼は率先して遊びの主導権を持っていたので
、一緒にいていつも楽しかった。何時も少年Mの横には山口晃がいたみたいだった。
それだけに彼の家は少年Mが住んでいる浅間温泉の旅館のすぐ近くとずっと思い込んでいた。


「駒草」という文集が届いたあと、偶然山口晃の家は近くではないことを知ったのだ。
では、あの石を投げて少年Mをいじめ通していた山口晃が良い子になった訳は何だろうと、
もう一度自分が書いた文章を読み返した。そうだったのか、それが理由かと判った。
でも本当の理由は本人に聞かないと判らないが、彼は天国にいるから聞けないが、
少年Mは今はやがて喜寿を迎える年だが間違いないと思っている。


長野県は明治10年臨時県民会において公娼制度の実施に踏み切り、
横田、松本城の東側に遊郭が作られた。現在の新浅間温泉辺りがその場所になるという。
山口晃の家はその遊郭の中にあった。そこで幼い山口晃の目にしたものは、
激しく刺激的な風景だったに違いない。
横田遊郭は少年Mの住んでいる浅間温泉からはかなりの距離があるが、
当時はそんな場所に遊郭があるなんていう事は少年Mが知るはずもない。
ちょこちょことすぐに顔を出す山口の家はすぐ近くだと思っていた。
実は山口晃は遊郭の中にある自分の家にいるのが嫌で学校から帰るとすぐに
浅間温泉の少年Mの所に来たのだろう。


そんな雰囲気の中で育った山口晃は、自分のやるせないストレスの塊を、東京から
ひょっこり疎開でやってきた少年Mに荒立つ気持ちが、いじめっ子に変身させたのだろう。
いじめっ子としては知られていた。
ところがある日、少年Mの母親が夕食を一緒に食べようという事になり、
もともと心の優しい山口晃は少年Mの母親の優しい心に触れて、
いじめっ子だった自分の姿に気が付いたのだろう。
家とはこんなものだと。暖炉のような温もりがあると。
いじめっ子山口晃は、その時を境に良い子に変身したのだ。


少年Mはそう思った。

そして終戦、今東京の学校に戻らないと戻れなくなるという話で、クラスの友達に
さよならを、勿論、山口晃にもさよならを言えないまま松本を後にしたのだ。


復刻版の「駒草」の文集の中の写真で、少年Mは会いたいと思っていた彼と対面できた。

その写真は、昭和24年小学校卒業の時の写真だ。
忘れられない、いじめっ子だった時の山口晃の懐かしい顔だった。
少年Mは山口晃に聞きたいことが沢山あった。それは疎開の時の少年Mの姿や印象だった。
それに何でいじめたのか?その後、何で良い子になったのか?など。
又その後の山口晃は、どんな生き方をしたのか知りたくなったが、
早くに死んだ彼の消息を知る人が見当たらない。


そうだ、福沢慶孝なら知ってるかも?でも彼もうっすらしか知らない。
彼から聞いた山口がいたという東京大学、千葉大学に問い合わせても
個人情報がネックとなり先へ進まない。
横田遊郭の中にあった彼の実家も売り払っていた。
ふと福沢慶孝は、事の経緯を奥さんに話したら、
なんと福沢夫人と山口晃の夫人が同級生だったことが判った。


山口晃はお見合いでピアノが大好きな昭代さんと結婚していた。
運動、特に軟式テニスが好きな彼は日本体育大学に入学。
運動生理学を学んだ彼は卒業して東大の研究室に。ここで助手から講師へ。
その後、国立千葉大学へ移り助教授となり、若くして教授に就任した。


すこぶる順調な学問の道を歩んでいた。3人の子供さんに恵まれた山口晃は
平成2年、学生を連れ英国へ。
帰国後、授業が始まる9月10日に大学の研究室に出勤したが、
研究室の机にうつ伏せに倒れていたところを発見された。
脳幹梗塞で平成2年9月18日に53歳で亡くなった。
茶目っ気のある彼は東京でユニバーシアード大会が開催された時、
アジアの選手と間違われてよくサインを求められたらしい。
彼はそれにこたえて「山口晃」と書いて驚かせていたという。
彼の容貌はこの一言でお判り頂けるだろう。


山口晃は優しい人でしたと語る昭代夫人は平成24年8月に23回忌を済ませた。
優しい人でしたという照代夫人の言葉から山口晃の心中が少年Mにはよく理解できた。


東京の小学校に5年生で戻った少年Mは、ここで人生の師ともいうべき先生に出会うのだ。
鍬守篤麿、東京師範高等学校、今の筑波大学の前身の学校で此処の体育科を出た人だ。
彼は伊豆多賀の海辺に小屋を持っていて、休みになると少年Mをこの小屋に連れ出して
和船の漕ぎ方、平泳ぎ、立ち泳ぎをはじめとして少年Mの心の中に
人生での生き方を叩き込んでくれた。
通称、鍬守篤麿先生の事を「クワセン」と呼んでいた。


赤倉の山荘での林間学校の生活では、夜中に突然ストームだと大声で皆を起こして、
まくら投げだか取っ組み合いをして30分も経つと「止め」という声がかかった。
更には関燕の雪の夜に山越えを、しかも途中から吹雪になり遭難しかかったこともあったが、
クワセンのパワーがそれを乗り越えさせた。ストームは感情を一時的に爆発させて、
次の瞬間、気持ちを抑える訓練に最適だという。


今ふと考えると、山口晃も大学を出て生徒にクワセンみたいな向き合う形で
接していたのではないだろうかと考えた。いじめっ子が良い子になった山口晃に、
小学校卒業写真で再会できたことは少年Mの心の中に和みを感じさせた。
でも本当は元気な山口晃に会いたかったねえ、会ってあの時何でいじめたか、
直に理由を聞きたかったね。


今の時代に疎開といっても意味が解らないだろう?
少年Mの時代は年も幼く、何で見知らぬ土地へ行くのかさえ理解出来ていなかった。
標準語しか知らない者にとっては、地方には別の喋り方があるなんていう知識もない。
そうした中での、いじめと言っても現代のような「いじめ」とはいじめが違う。


疎開地での思い出というと、少年Mはやはり、いじめっ子だった山口晃だ。
後は、裸足で通学した事。
配給で
サツマイモとシャケ缶を取りに行った事。
カルシウム代わりに、さなぎを食べたこと。
小遣いをもらうと本屋に南洋一郎の冒険小説を買いに行った事。
サツマイモの茎を美味しく食べた事。
割りばしに縫い針を糸で巻きつけて川で、かじかを取った事。
流れの綺麗な川に生えていた芹を取って食べた事。
いじめっ子だった山口晃とイチゴ畑でイチゴを盗んで食べたこと。
桑の木の枝でチャンバラをした事。


大人たちの世界は騒がしかっただろうが、少年Mの世界は実にたわいない世界だった。

そうだ。まだある。松本電鉄の電車の線路に石を並べたっけ、山口と。
そして浅間温泉のさらに奥の村の、洞の農家の座敷で天皇陛下が告げる終戦の玉音放送を聞いた。


やがてジープに乗った進駐軍のアメリカの兵隊を見て驚き、チューインガムを貰い、また驚いた。
今考えると東京は東京、地方は地方で、それぞれの土地柄が明確に存在していたのだ。
その良さは今は渾然一体となり区別も無くなった。


少年Mの疎開地の思い出も山口晃のすべてが判った時、完結した。




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